アジア・フリーク(Asia Freak)

タイを中心にアジア探索の記録

教養としての宗教入門 - 基礎から学べる信仰と文化 (中公新書)

 

◆内容紹介

イスラム教徒と日本人は所作を重視し、「一」神教か「多」神教かも見方次第? 目からウロコが落ちていく、深くてやさしい宗教ガイド。

 

◆内容(「BOOK」データベースより)

宗教とは何か―。信仰、戒律、儀礼に基づく生き方は、私たち日本人にはなじみが薄い。しかし、食事の前後に手を合わせ、知人と会えばお辞儀する仕草は、外国人の目には宗教的なふるまいに見える。宗教的儀式と文化的慣習の違いは、線引き次第なのである。ユダヤ教キリスト教イスラム教から、仏教、ヒンドゥー教、そして儒教道教神道まで。世界の八つの宗教をテーマで切り分ける、新しい宗教ガイド。

 

◆著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

中村/圭志
1958年北海道生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

◆レビュー

  2016年12月、再び、アンコール遺跡を訪れる前に、ヒンドゥー教などの概要や相対的な宗教観を理解するために手にした。(たまたま入った古本屋で安かったし。)

  世界の主な宗教について、外面的な特色を簡潔に解説。場合によっては、比較、対照しながら、教義の概念を説明。

  信仰の当事者としてではなく、客観的、批判的に宗教を論じる宗教学としての入門書。

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  信仰の当事者としては、宗教や教義は、自身の信念や生き様、価値観の根拠なので、体験、実感、感情が伴っているのに対して、信仰者としてではなく客観的に論じる宗教学は、体験、実感、感情を極力排除して科学的批判的に論じる。

  現代科学が、すべての事象や精神の宗教的問題を説明できない状況では、信仰の当事者としてではない科学的アプローチでは、信仰の当事者がいだく宗教を説明し切ることはできない。

  大切なのは、宗教は精神の問題に向き合い、科学は事物の問題に向き合っており、いずれも現実の問題に向き合っているということと、宗教と科学は、まだ学問的に繋がりきっていないということ。心理学や脳科学などによっても、宗教と科学との接点については、まだまだ道のりは長く思える。つまり、宗教には科学的検証が必要だし、科学には宗教的検証が必要。人間的宗教(道徳倫理)性の無い科学が生み出した悪魔的産物の一例が原爆ではないだろうか。人間性を排除した経済社会が行き着くところは、非人間的な冷酷な社会という現実も、ひしひしと理解できるところではないだろうか。また、科学的検証を欠いた宗教の結果が、オウム真理教サリン事件などであり、ISの暴力性ではないだろうか。

  本書を読む上での注意点は、信仰の当事者としてではなく説明される宗教観は、当事者の認識する宗教観とは、温度差があり得るということ。これを踏まえないと、観点の違いがあることに気付かず、無用な論争(立場によっては内紛や戦争)を引き起こしかねないということ。自分の価値観や生き様を、他人事のように評論され貶されれば、心が痛むのが人間。意見の不一致や配慮の無い発言が原因で、殴り合いや、殺人に至る事件は、世界各地で絶えない。

  信仰の当事者がいだく心理にまで思いを致して、教養としての宗教を理解することが必要と思う。

 

ヒンドゥー教

  古代インドから受け継がれ、確立されてきた神々への信仰のこと。

  実際には、インドラ神、ヴィシュヌ神シヴァ神など、どの神を最高神として信仰するかで分かれている。アンコール遺跡も、シヴァ派など、寺院によって祀る神が異なっている。

  つまり、ヒンドゥー教の理解とは、それぞれの神の位置づけや働き、意味を理解すること。

  また、ヒンドゥー教といっても、インド圏には、それぞれの特色があるように、伝播した先のインドネシアカンボジアベトナムなどには、独自に発展したヒンドゥー教がある。

 

Ref.

★インドラ神

(英語) Indra
(泰語) พระอินทร์(PHrá・?in プら・イン)、 เทเวศ(THeewêeTH テーウェーと:「最高神」の意味)

                 Cf.バンコクには、รามอิทรา(raam・?inTHraa らー厶・イントらー)という地名や、チャオプラヤー川にテーウェートという船着き場がある。

(柬語) ព្រះឥន្ទ្រ(prɛ̀əh・?əntɛ̀ə? ぷれア・インとれア)、ឥន្ទ្រ(?əntɛ̀ə? インとれア)

 

ヴィシュヌ神

(英語)Vishnu
(泰語)วิษณุกรรม(wítsànú・gam ウィっサヌ・がー厶)、 พระวิษณุ(PHrá・wítsànú)、พระนารายณ์(PHrá・naaraai プら・ナーらーイ)、 มหิธร(máhìTHoor マヒトーン)
                Cf.พิษณุโลก(PHítsànú・lôog ピサヌ・ローぐ):(ヴィシュヌ・世界→ヴィシュヌ世界)ピサヌローク県
(柬語) ព្រះពិស្ណុ (prɛ̀əh・pi?sno? ぷれア・ぴスノ)、វិស្ណុ(vi?sno? ウィスノ)、ពិស្ណុ(pi?sno? ぴスノ)

 

シヴァ神

(英語) Shiva
(泰語) พระศิวะ(PHrá・sìwá プら・スィワ)、พระอิศวร(PHrá・?ìsǔan プら・イスアン)
                 Cf. タイ語で東北を意味する「อีสาน(?iisǎan イーサーン)」は、アンコール王朝に先立つ古代国家「真臘(しんろう;チェンラ Chenla)」の王都「イシャーナプラ(サンスクリット語 Īśānapura)」に由来する。「イシャーナ」は、シヴァのことで、タイ語 อิศวร(?ìsǔan イスアン)に対応する語。
(柬語)ព្រះសិវៈ(prɛ̀əh・se?va? ぷれア・セヴァ)
                 Cf.イシャーナヴァルマン1世(Isanavarman I):チェンラの王(616-637)で、 イシャーナプラを王都とした。

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「古代の信仰は素朴であり、神々に動物犠牲などを捧げて、安寧を祈願するというものであった。祈りの儀式の専門家であるバラモンと呼ばれる祭司階級は、大きな権力を持つようになった。ヒンドゥー教の古層をとくにバラモン教と呼ぶのはそのためだ。」

  アンコール王朝の王は、ヒンドゥー教や仏教により、国を統治しようとしたが、主な使命は、国の安定、発展、平和。天災や外敵から民を守り、治水工事を施すなど、安定と発展をもたらす役割があった。そのために、目的に応じてヒンドゥー教の神々を祭り、祈りを捧げた。つまり、インドのバラモンと同様、自然や近隣国といった環境との関係をコントロールする役割が、バラモンであり、アンコールの王の使命だった。この使命が果たせないと民が考えた時、バラモンの地位は形骸化し、アンコール王の権威は落ちた。インド発祥の仏教が、インドで廃れた原因は、バラモン的高僧が形骸化し、民の心から離れたからだと言われている。

  ここで、自然を含めた環境と、民の心に連動性をもたせるのがバラモンやアンコール王の役割だったが、環境と心が連動するという思想は、仏教の依正不二の思想と重なる。祈りという手段で、環境と心を連動させるという思想。平たく言えば、人心が穢れれば環境や社会が悪化したり、「〜したい」と強く、常に願うことで、チャンスを逃さず、願いを叶えるという、最近ちまたで言われるマインドコントロールや「引き寄せの法則」の話とも通じる。

  別の角度から言えば、形骸化した葬式仏教などと言われるように、金(報酬、見返り)を得られるなら祈るよ、という前提であれば、そんな心の無い祈りでは効果が無いということになる。祈りは、心からの願いによって、環境の変革(連動)をもたらすのだから。

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